横浜大空襲を伝える祖父の手紙
2006年10月16日初版、2008年5月10日欠落部分補充、追記。

無断転載はお断りいたします。

昭和二十年五月三十日付
五月二十九日横浜大空襲の模様を記した祖父から山形の疎開先の家族へ送られた手紙

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bikke(管理人)の前書き。
 1945年の横浜大空襲の模様を、疎開先の家族に知らせる祖父の手紙が残っています。
 祖父(児玉正五郎)は当時48歳(数え)。大変な子煩悩で、横浜に残った息子二人、正俊、正昭(二人とも私から見ると伯父)と、山形に疎開した妻(私から見ると祖母)、娘三人(上の娘が良子、私から見ると伯母。二番目の娘が私の母)がおり、この手紙は祖母と伯母に宛てた形になっています。

 今後、解説を含めて追記を考えていますが、祖父が1976年8月に78歳で亡くなって30年を過ぎたという事もあり、とりあえず手紙の内容を公開しようと思います。
 手紙の舞台は横浜本牧。本牧は横浜空襲の際の五つの目標のうちの第五目標とされていますが、手紙の文面からもその模様が窺えます。
 「事務所」は祖父が弁護士事務所を営んでいた事務所。市の仕事を多くしていた祖父らしく、空襲後の事後の打ち合わせする旨書かれています。
 二十二年は、祖父が祖母と結婚して所帯を持ってからの年数です。
 ちなみに祖母は生まれてからこの世を去るまで、戦中戦後の疎開時以外、一生を横浜で過ごした生粋の浜っ子でした。祖母が亡くなってからも既に20年余りが経過しています。
 祖父が手紙で案じている親戚の名字が児玉でなく「岡本」「伊藤」となっているのは、祖父が長野県戸倉の出で、横浜市内の親戚が祖母の関係であったからです。
 自分の息子を案じる件で、陛下に捧げた云々しているのは勿論本心ではありません。
 召集令状の出所を「温泉」と言っているのは、祖父の出身が長野県戸倉で、実家が温泉宿を営んでおり、家族の本籍であるここに召集令状が届いて横浜の住まいに転送されて来たものの様です。
 唸っている和田山とは対空砲火を示しています。

 祖父家族は戦後、住む家がなく江ノ島洗心亭に身を寄せ、その後、横浜市元町に家を求め、そこを終の棲家としていました。
 僕ら孫にもとても優しかった祖父。祖父は良く僕ら孫を元町喜久家洋菓子舗に連れて行ってくれましたっけ。元町商店街の様子は随分変わってしまいましたが、今でも喜久家は当時の面影をよく残してくれています。

感想、情報を頂けると嬉しいです。

------以下 手紙の文面です------

一同無事、元気極めて旺盛。先ず何よりとお喜び願いたい。
ラジオ、新聞等によって大体御承知の事と思うが、今度の空襲は未曾有の大空襲にして、大体横浜に主力を向けられた。B29五百機、P51百機、計六百機。為に横浜はその大部分が被害を受けた。殊に中区、神奈川区が被害甚大であった。
勿論事務所も自宅もやられた。されど自分も俊、昭も微傷だに負わず死者、負傷者の救護に全力を尽くした。二十二年来の物資は全く零となったが不思議な程冷静だ。
今更何の未練もない、之が今の心境だ。
之から昨日の空襲の模様をお知らせしよう。
山形から帰ったのが二十七日、中一日置いて二十九日の朝も何時も通り六時過ぎに皆起きた。早速朝食の支度に取り掛かった。正俊が「お父さん何時来るか分からぬ、例のを煮ましょうよ」と言って一升米とぎをする。父が火を炊き、続いて味噌汁、茶の湯を沸かした。飯の用意は出来た。何時もの通り先ず佛様にお初を上げ、玉露を美味しく飲む。土産の青海苔を揉んで椀に振りかけた。卵と海苔で一家三人戦局や時局を談じ合い乍ら一家団欒朝食を取っていた。
 突然警戒警報が鳴り、ラジオは小型機を主力とする大編隊が南方海上を北上しつつある事を告げた。小型機ならば例によって軍事施設を目標にするのではないかと話し合った。 ラジオは刻々敵機の行動模様を告げる。
 此の時、速達の書留郵便が届いた。それは「温泉」からの手紙だ。開封したら目出度くも正俊の現役召集書だ。(但し入営部隊、召集入営時日等は追って告知す)二人で期せずして「お目出度う」の祝辞を呈した。正俊も大喜びであった。父は「之は召集の時入用だから空襲を受けても差し支えのない様に常に洋服の上着の内ポケットに入れておくがよい」と注意し、正俊も了承して早速内ポケットに大切に仕舞った。
 飯を済ませて早速防空服装に改めた。父は箪笥の中から更に相当量を取り出し、二個の包みにした。用意は出来た。
 敵機は愈々上空にやって来た。何れも九機十機編隊だ。
 和田山は猛烈に唸りだした。二、三、の編隊は何れも正面を外れた。その中、正昭が今度の奴は正面に向かってくる危ないという。その中「落とした」といって茶の間の壕に飛び込んできた。父は既に中に居た。間もなく「ザーア」という連続音が聞こえて来た。初めて聞く不気味な音だ。と次の瞬間、家の屋根にドタドタドタと恰も夕立の降り注ぐ様に物凄い恐ろしい何とも形容のできない焼夷弾の命中音だ。その数も実に無数らしい。遂に来るべきものが自分の家にも来たのだ。約十秒位で終わった。三人は「ソレー消火だ」と叫び乍ら直ぐ壕を飛び出した。と其の時再びザーの落下音が聞こえた。三人は続いて壕に再び飛び込んだ。と同時に前よりも一層物凄く焼夷弾の雨は我が家を襲った。而も巨大なる焼夷爆弾は同時に柿の木の根元近くと杏の木根元近くに落下爆発した。三人は雄々しく「消火」と叫んで壕を飛び出した。見れば茶の間は既に四、五ヶ所に点火しチョロチョロと所々をなめている。油脂の黒煙は室内を大分暗くしている。
正俊等は満々と張った風呂桶の水をバケツで汲みだし消火に努めたが、中の間、二階亦同様三人の消火力では如何ともする事が出来ない情勢となった。父は「もう危ない、早く避難せよ」と命ずる。父は玄関に至り、早速靴を履き鉄兜を被り、合いのオーバーを取り湯殿の風呂桶に付け、ズブ濡れのオーバーを頭に被って勝手口から外に飛びだした。焼けているのは吾家丈かと思って飛び出して見れば此の時何処の家も一様に同様の運命だ。太田様の家の方にも早速行かれない。小堀様、松坂様何れも紅蓮の焔は猛烈な勢いで北方に吹きつけている。再び吾家の座敷より丸山氏の屋敷に逃げ込まんと戻り見れば丸山氏の家も盛んに燃えている。全く四方火の海だ。
福田夫人は登さんを背負い、実さんと一緒に。林様は之亦女三人で。小堀様は夫人と千鶴子さんと二人で何れも途方に暮れ為す処を知らない。進退全く極まった。自分は四十八年の生涯は之で終わると考えた。俊、昭等は既に何処に行ったか分からない。自分は女たちを激励指導して旧福田家の庭を指示し、松坂様の畑の向こう側なる望月様入口の道路にいかしめた。此処には槇の木立があり、松坂氏の火勢を幾分でも食い止められる事と、兎にも角にも距離が約十間畑地を隔てているので幾分安全と思ったからだ。渋谷氏、お湯屋も焼けている。随分と熱い。更に掘割りと見れば、数十人の人が飛び込んで難を逃れんとして居る。南風は烈風となって吹きつけて来る。だが幸い火勢は次第に衰えてきた。かくして二十六隣組は幸い一同助かった。
(小堀様老婆死亡す。太田千代司氏も同様。)
俊、昭は此の時姿を見せぬので、テッキリやられたのではないかと思い非常に心配したが、幸い俊は丸山氏の邸内で、亦昭は一旦丸山氏方に入りたるも、危険を感じたので取って返し、福島様の中を通って父の退避場所に来たのだ。死んだと思った昭にあった時の嬉しさと未だ俊の生死不明の不安とが交々湧き鎮火を待って昭と共に探しに行ったが見当たらない。路上や邸内の犠牲者を見るたびに、探し求め乍らも近寄る事が恐ろしくてならない。
 其の中に、昭に「お父さん報告、兄さんは無事で目下負傷者や犠牲者の救護に奮闘中であります。」と軍隊口調で報告された時は男泣きに泣いた。財産など要らぬ。生命さえ無事ならよい。米への此の報復もキッとする。
 殊に正俊は、タッタ其の朝現役召集の通知を受け、一家喜び合った許りである。既に陛下に捧げた体だ。万が一の事があっては相済まぬと思っていた丈に其の喜びは大きかった。岡本も伊藤も同一事情と思われるが交通がないので確かめることが未だ出来ない。
そんな訳で全く何一つ持ち出せなかった。無事で居た事を大いに喜んで貰いたい。
それにつけてもお前たちを疎開させて置いて真によかったと思った。でなかったとすれば或いは親子の内きっと犠牲者が出たであろうことを予想出来るのである。
自分も未だ壮年の意気で大いに活動する覚悟だ。倅二人の元気は云うにや及ぶ。家はなくとも一時的現象だ。絶対に余計な取り越し苦労をする事は止して貰いたい。
二人は臼井様の処で暫時ご厄介になる事にした。自分は組長の責任上間門校に在って町会として亦組長として戦災者の為に働く。(勿論これも後二、三日の事と思う)
明日は裁判所に行き当局と種々打ち合せをする考えだ。手紙を出すなら新住所を通知する迄一時「間門国民学校山田先生気付児玉正五郎」として出して呉れ。何れ皆に会った節にお話をしよう。
皆体を大切にしてください。
高橋様の皆様にもよろしくお伝えを乞う。

五月三十日 夜
  磯子 高橋君宅にて

             正五郎

磯子は被害なし 勿論皆無事なり

喜久子様
良子様

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