小田急電鉄3000形(初代・SE車) 2006年1月30日修正

3000形SE車
1981年、本鵠沼−鵠沼海岸。
写真は車体修理前で、客窓の開閉が可能であった。2両目2番目の窓が開いている。

本稿は、2005年4月にに本ホームページ用に纏めました。

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概要:
 従来、特急車は旧くなると格下げを行うのが常であったが、1957年に将来の格下げを考慮しない特急専用の設計として登場したのが3000形である。小田急鉄道営業開始30周年に登場した3000形。2400形ではなく番号区分を飛ばして3000形にしたのには色んな意味があるのだろう。
 従来の概念を捨てている為、超特急、即ちSE(Super Express)車と呼ばれた。
 1957年5月20日に日本車輌蕨工場製の3001編成が今は無き新宿の国鉄との連絡線から入線し、試験の後、追って入線した3021編成と共に6月22日に竣工、営業運転開始は1957年7月6日と全くの新型にも拘らず入線から営業運転までの時間が短く、なんとかして夏の避暑に間に合わせようとした事が窺われる。川崎車輌製の3011編成が入線したのはこの後で、1957年8月8日に小田原から入線していて、竣工は1957年8月9日。従って番号順に竣工したわけではない。3011編成は直ちに営業運転には就かず、9月に国鉄に貸し出された後、10月1日から営業に就いている。
 車体構造は格下げ改造を考慮していない為、徹底的に軽量化され、外板は1.2mm。側面にバックリング防止のリブが入れられ、台車を減らす為に8車体9台車の連接構造とされた。編成長108.1mで編成重量は147t。座席定員は354名であった。
 エクステリアは軽量電車然としており、先頭形状は風洞実験を行い丸みのある流線型となった。車体の下部と上部が絞られているのは構体の強度を維持しつつ表面積を減らして軽量化する為であろう。重量の嵩む冷房装置の設置は見送られ、側窓は開閉可能な上昇式であった。
 車体幅は2800mm、室内幅が2560mm、シートピッチが1000mmで、座席は2300形が転換リクライニングシートであったのが通常のクロスシートに戻っているが、これは軽量化との兼ね合いであろう。車体の配色はオレンジを基調とし、屋根と窓周りがグレーで、境界に白のラインを配したもので、これは当時秦野に住まわれ活躍していた宮永岳彦画伯(1919〜87年、「ぺんてるくれよん」のパッケージ絵が有名)に依頼して決定したものである。この配色が後年ほぼそのまま国鉄のディーゼル機関車に使われているが経緯は不明(デアゴスティーニ・ジャパンの鉄道データファイルにもこの辺は曖昧な記述しかない←誤記や執筆者の思い込みが多く捨てられたエピソードも多い。イラストも不正確なものがある。毎週買っているだけにちょっと残念)。
 高速運転に備え、軌道への負担を極力減らす為に軽量化と共に重心を下げる事にも意が払われ、床面のレール面からの高さは875mm、台車上部の床面は1000mmしかなかった(後年10mm持ち上げられている)。段差がある為通路にスロープがある。天井も低く抑えられ2150mmである。
 車内販売設備は編成中2箇所、便所も2箇所である。
 小田急の特急車は1700形以来客用扉が少ないが、3000形では8車体のうち両端の先頭車には客用ドアが無く、中間車6両にある客用ドアは手動ドアである。その為、客扱いされるのは乗務員のいる編成中数箇所だけで、小田急が特急の途中停車をあまり考えていなかった様子が窺える。
 8車体9台車で内、電動台車が6台。付随台車は端から3、5、7番目で、両端が付随台車の車体が無い為、全車体がデハ3000形であった。
 台車は小田急が各社の新型台車を採用していた時代であった為、3000形では近畿車輌製のシュリーレン式台車を採用した。電動台車が軸距2200mmのKD-17、付随台車が日本の鉄道車輌では初のディスクブレーキ付で軸距2000mmのKD-18である。ところがこの台車は揺れ枕吊が短く、それゆえ高速運転時の乗り心地が悪いとされた。これを受け、2400形の新製車にこの3000形の台車を転用して3000形には住友金属製の空気ばね台車を新製して履かせる計画が持ち上がり、実際に1961年にクハ2474に3000形のKD17台車を履かせて試験をしているが実行には移されなかった。車体の構造から、住友金属とて揺れ枕吊が長く、かつ軽量な台車を造るのは容易ではなかったのではないかと推察される。しかしこの後、小田急は台車を近畿車輛に発注する事はなく、主として住友金属に発注する事になる。
 電動機は出力100kwの東洋電機製TDK806/1-A。歯数比は3.71(78:21)と小田急電車の中ではかなり低く採られており、平坦線均衡速度は145km/h。実際、1957年9月に竣工後間もない3011編成を使用して東海道線大船−函南間で数次に渡って行われた高速度試験のうち、9月27日に函南−沼津間で145km/hを出している。これは当時の狭軌の世界記録であった。この記録は国鉄こだま形151系電車が1959年7月に163km/hを出して塗り替えられ、この記録もまた翌年国鉄の高速度試験車クモヤ93000が175km/hを出して塗り替えられている。新幹線に向け走っていた、そんな時代である。
 駆動装置は中空軸平行カルダン式。
 制御装置は東芝製MPM型MM-50-Aで末尾2、4、7の車輌に計3組搭載、それが4個の電動機を夫々制御していた。通常、電動機は4個直列であるが、箱根登山鉄道乗り入れ時には12個直列運転を行っていた。
 制動装置は新三菱重工業製の発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキHSC-D。
 車内見付の構成は、前後4両でシンメトリーな構成であった。
 1957年製造の3編成は中間3両を抜いた5両編成での走行が可能で、実際に5両編成で運行された事がある。1959年に増備された第4編成は5両での運行は考慮されていないが、後の編成組替えの際に5連とされたのは偶然ではあるまい。パンタグラフは末尾2、7の車輌に設置されていた。
 前照灯は鉄道車輌では初のシールドビーム式である。
 1957年度に8連3本、1959年度に8連1本が一部仕様を変更して増備され、合計8連4本32両が造られた。
 冷房装置は当初設置されていなかったが、3100形の登場に先立ち1962年に各車座席1列分を潰して床置形の冷房装置を設置し、定員が322名に減少している。
 1967〜1968年に8両編成4本を5両編成6本に組替えた。これは国鉄御殿場線電化に際し、それまで御殿場線に乗り入れていたディーゼルカー、キハ5000形とキハ5100形を3000形で置き換える事にした為であるが、8両編成では輸送力過剰と判断されたのだろう。先頭車が不足する為、中間車4両が先頭車に改造され、余剰となった2両が廃車された。座席定員は222名となった。塗装も3100形同様胴体下部のオレンジ部分に太いグレー帯を入れ、上部のオレンジのラインが太くされている。併せて改造工事が施されているが主なものは以下の通りである。
 御殿場線の勾配登坂能力を持たせる為に歯数比を3.71から4.21(80:19)に上げ、車輪径を840mmから標準的な860mmに変更し、車体が10mm持ち上げられた。歯数比変更による高速性能維持の為、弱め界磁範囲を拡大した。床置形の冷房装置を撤去し、屋根上に冷房装置を設置しなおした。多客期及び3100形の代走に備え、重連運転を行える様にする為、車体台枠を前方に延長し自動電気連結器付の密着連結器を装備した。前頭部に3100形同様の5角形の内部照明付の愛称板を設置、スペースの都合で前照灯の位置が変更された。
 5両編成になり、売店が1箇所になるのはともかく、便所も1箇所になってしまっており、故障すると乗客は用が足せなくなってしまうという特急車としては疑問のある設備内容になってしまった。
 また、重連時には座席番号が重複する為、特急券にはA、Bの印が押され、車輌のサボにもA号車、B号車のサボが掲示されていた。
 なお、この編成組替えにより5両編成6台車中、電動台車は両端の4台車となり、編成中央の末尾3の車体が両端付随台車となり付随車に形式変更されている。しかし形式はサハ3050形とならずにサハ3000形で、編成通し番号である。3100形が既にある為、付番ができないので通し番号を踏襲したものと考えられ、後の7000形は同じ連接車であるにも拘らず50番区切りの付番をしている。しかし10000形では付随車があるにも拘らず編成通し番号に戻っていて一貫性が無い。
 ちなみに、小田急SSE(Short SE)車と言われるのは、この改造後の短縮編成を指しているのだが、全車が改造されている為、小田急自身は特に区別をしている様子は無く、一貫してSE車と呼んでいる。
 7000形が増備されるのに伴い、登場後25年を経た1983年3月に3001編成が除籍、大井川鉄道(正式表記は大井川鐵道)で動態保存が決まり譲渡されている。大井川鉄道側では5両編成では長過ぎる為、編成短縮を検討したが改造費が嵩む為に断念、5両編成のまま運行していたが結局維持できずに1993年3月31日に除籍されている。
 1984年から1985年にかけて、残留した5編成の内、3011編成を除く4編成に延命工事が行われ、雨漏りの散見された屋根は全面的に修理されクーラキセを載せ換え、側窓が固定されている。内装も7000形に倣って明るい感じに変更されている。ボロボロになった車輌を譲り受けた大井川鉄道はどう思っただろうか。
 1987年3月余剰気味だった3000形のうち、高速度記録を打ち立てた3011編成が除籍された。更に1991年に3000形の置き換え用の20000形が2編成出揃い、1991年3月から「あさぎり」の運行に使用されるようになると、3000形は予備車的な存在になり、経堂に留置される事が多くなった。去就が注目されたが、ついに1992年3月の年度末をもって残っていた4編成が一斉に除籍された。大野工場への廃車回送は重連の自力回送であった。
 大野工場に回送された3000形4本のうち、3021編成は保存が決まっていて、新宿方の先頭車3021号の前頭形状が登場時に近い形に復元されているが、これを小田急は技術の継承の為と説明していた。車体の塗色は3021と3022の2両が登場時の塗り分けに変更されているが、側窓は固定されていて屋根上のキセも登場時と違うものが載ったままで、中途半端な復元である。なお、この3021編成はこの後海老名に造られた専用の格納庫に収められて大切に保管されているが、接続していた線路は撤去され、格納庫から引き出す事は出来ない。鉄道の日のイベントでは毎年格納庫の内部が公開されている。
 高架複々線化の産物として、東急電鉄の様に高架下に保存スペースを設け、モハ1、2200形、3100形と共に常設展示くらい しても良さそうなものだが、保管してあった3100形の中間車5両は解体、向ヶ丘遊園の閉園に伴い鉄道資料館は閉鎖、海老名に保管してあったデキ1012を2005年に入って解体するなど、過去を振り返って鉄道の知識普及の為の設備を造る余裕は小田急には無いようだ。神奈川県立総合交通公園には資料を提供しているのだが。

 特急専用として軽量設計された3000形は実は15年程度で減価償却される予定だった。しかし結局は1991年3月まで33年余り連日第一線で運行され続けたのである。引退から既に13年、時が立つのは速い。このページをご覧になっている方の中には3000形の活躍を見ていない方も多い事でしょう。
 なお、3000形は鉄道友の会の最初のブルーリボン賞の受賞車輌であるが、ブルーリボン賞そのものが3000形を表彰する為に創設されたのが実情であるという話は有名である。最近は表彰したい車輌そのものが少なくなってきた感じがする。

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履歴:
 ●竣工

 1957年6月22日、3001+3002+3003+3004+3005+3006+3007+3008、3021+3022+3023+3024+3025+3026+3027+3028日本車輌
 1957年8月9日、3011+3012+3013+3014+3015+3016+3017+3018川崎車輌
 1959年3月2日、3031+3032+3033+3034+3035+3036+3037+3038川崎車輌

 ●編成組替・改番
 3001+3002+3006+3007+3008と編成替して3001+3002+3003+3004+3005とされた(3006が3003に、3007が3004に、3008が3005に改番された。3006はデハ3000形からサハ3000形に形式変更されている)。
 3011+3012+3016+3017+3018と編成替して3011+3012+3013+3014+3015とされた(3016が3013に、3017が3014に、3018が3015に改番された。3016はデハ3000形からサハ3000形に形式変更されている)。
 3021+3022+3026+3027+3028と編成替して3021+3022+3023+3024+3025とされた(3026が3023に、3027が3024に、3028が3025に改番された。3026はデハ3000形からサハ3000形に形式変更されている)。
 3031+3032+3036+3037+3038と編成替して3031+3032+3033+3034+3035とされた(3036が3033に、3037が3034に、3038が3035に改番された。3036はデハ3000形からサハ3000形に形式変更されている)。
 3015+3005+3013+3004+3014と編成替して3041+3042+3043+3044+3045と改番された(3015が3041に、3005が3042に、3013が3043に、3004が3044に、3014が3045に改番、3013はデハ3000形からサハ3000形に形式変更され、3015と3014には運転台が新設された)。
 3035+3025+3033+3024+3034と編成替して3051+3052+3053+3054+3055と改番された(3035が3051に、3025が3052に、3033が3053に、3054が3054に、3034が3055に改番、3033はデハ3000形からサハ3000形に形式変更され、3035と3034には運転台が新設された)。
 この組替で余剰となった3003と3023は除籍された。

 ●廃車
 1968年3月30日、デハ3003、デハ3023。
 1983年3月30日、3001編成。大井川鉄道に譲渡、1993年3月31日に除籍、1993年夏に解体。
 1987年3月27日、3011編成。
 1992年3月31日、3021編成、3031編成、3041編成、3051編成。3021編成は海老名検車区で保存。

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