小田急電鉄1900形2006年6月12日新規


本鵠沼−鵠沼海岸にて。1976年7月。
最後に残った4連、1903編成で、この後間もなく引退している。
3両目の車体が大きく見えるのは気のせいではない。国電の戦災復旧車で幅が100mm大きい。
2両目の屋根上の造作が違うのは、この車両が1956年に増備された車両である為で、台車は軸梁式のOK台車を履いている。

本稿は、2006年6月に本ホームページ用に纏めました。

TOPページへ / 小田急のページに戻る

概要:
 1949年、東急から分離後初の新車として登場したのが1900形である。
 通勤形と特急形があり、これとは別に1500形の編入車がある。
 当初Mc+T+Mcの3両編成で登場、5編成製作された内、2編成が2ドアセミクロスシートで特急用、3編成が3ドアロングシートであった。形式はデハ1900とサハ1950の2形式で車体の違いによる区別は無いが、2ドアが1910+1960+1910、3ドアが1900+1950+1900と番号は区分され、2ドア車を1910形とする場合もある。
 走り装置は戦前の1600形を踏襲しており、制御装置が直並列制御で弱め界磁付のABF、電動機が93.3kwのMB-146-CFで共に三菱電機製、歯数比は56:27=2.07、自動空気制動AMM-R等、1600形と同一である。
 台車は電動台車が汽車会社製KS33EL、付随台車がTR11またはMD5(1961・1962)。
 ほぼ1600形の戦後の再生産車と言っても良いくらいであるが、戦後復興の標準化により、窓の天地寸法が小さくなっている。貫通路が1100mmの幅広になったのが目新しい。
 電動車は新製車で車体長17000mm、車体幅2700mm。付随車は国電の戦災復旧車で車体長はやや短く16200mmのもの(1951・1961・1962)と16400mmのもの(1952・1953)があり、車体幅は2800mmでやや広い。
 特急用の付随車には便所、放送室、喫茶カウンターが装備されており、最初の走る喫茶室となった。これらの装備は後継の特急車1700形の登場により1954年に撤去されている。
 1950年に2ドア車は2000番台に改番され、これを2000形とする場合がある。
 1953年、デハ1900+クハ1950の2両編成3本が製造されている。デハが1911〜1913で2ドア車の改番の空番利用、クハが1956〜1958の追い番で、クハ1950形の車体寸法はデハ1900形と同じになっている。台車が1700形と同じゲルリッツ式の住友金属製FS-108A変更されている。
 1956年頃、3両編成5本を4両編成とする事になり、この際付随車の上り方に運転台を取り付けて制御車とし、新造の制御車を下り方に向けて挿入してMc+Tc+Tc+Mcの編成構成になっている。新製のクハ1950形は軸梁式の川崎車輌製OK17を履いている。
 この時2ドア車は3ドアに改造され、1900番台に改番されているが、2両編成を1910+1960とした為、1900+1950の空番利用としており製造時の番号に戻ったわけではない。
 ノーシル、ノーヘッダーの2100形、2200系登場後に製造された車両がシル、ヘッダー付の古めかしいスタイルで製造されているのは、同一編成中に違う見付の車両が混在するのを嫌う小田急らしい。
 1960年に旧帝都電鉄のデハ1501+クハ1551が車体更新の際1900形の形態に合わせられ、1914+1964に改番されて1900形に編入された。台車は1914がKS-31-L、1964がKS-30-Lであったが、1962年に1964の台車はTR-14に交換されている。
 以上により、1900形は28両が出揃った。
 1961年から1962年に掛けて、車体修理が行われた際に通常4両編成を組む2両編成10本の制御車10両の運転台が撤去され、4両編成5本、2両編成4本に整理された。

 この後、大きな動きはない。

 1974年6月の多摩線開業時、開通式には当時最新型の9000形が使われ、記念乗車券には9000形があしらわれたが実際は廃車間際の1900形を投入、後に輸送力過剰で1900形2連がのどかに走る事になったがその期間は短く2年程であった。
 並行する京王帝都電鉄相模原線との差は歴然で、新宿に直通する列車本数の違いもあって、小田急多摩線のイメージは京王相模原線より大分下になってしまった。同じ頃4連は江ノ島線を主とした運用に就いている。
 1973年の1800形と4000形の連結時の脱線を受けて連結運転を中止、4000形3連に中間車を増備して5連化する事になり、1900形を含むABF車がその種車とされ、1974年11月14日の1700形除籍の後を追うように同年12月から廃車が始まった。
 1976年8月8日に多摩線でさよなら運転を行って現役を退いている。

 富士急行に8両、伊予鉄道に2両、岳南鉄道に2両、大井川鉄道に1両の計13両が譲渡されているが、機器類の多くが4000形の製造に転用されている為、譲渡された車両は別に機器類を調達している。譲渡された車両は大井川鉄道を最後に、1996年3月に全滅している。

 工場出場直後の1900形に乗ると、板張りの床のワックスの香りがしたものだが、そういう車両はもう地方でも殆ど見られなくなった。

履歴:
 ●竣工・改番・編成組換え

 ・1949年度デハ1900形1901〜1906、1911〜1914川崎車輌、サハ1950形1951〜1953日本鉄道自動車・日本車輌、1961・1962東急横浜製作所
  1901+1951+1902、1903+1952+1904、1905+1953+1906、1911+1961+1912、1913+1962+1914に組成された。
  サハ1950形は国電の戦災復旧車で旧番は以下の通り
   1951←モハ50044、1952←モハ40120、1953←サハ36003、1961←モハ50058、1962←クハ65180
 ・1950年度、2ドアセミクロスシート車を2000番台に改番。
  1911+1961+1912→2001+2051+2052、1913+1962+1914→2003+2052+2004
 ・1953年度、1911+1956、1912+1957、1913+1958日本車輌・東急車輛
 ・1956年度、1956→1961、1957→1962、1958→1963と改番。
  サハ1950形に運転台を設置し、クハ1950形に形式変更の上改番。
   1951→1952、1952→1954、1953→1956
  クハ1950形1951、1953、1955、1957、1959の5両を川崎車輌で製造
  2ドアセミクロスシート車を3ドアロングシートに改造の上改番。
   2001→1906、2002→1907、2003→1908、2004→1909、2051→1958、2052→1960
 ・1961年度、クハ1950形1951〜1960の運転台を撤去、サハ1950形に形式変更。改番は無し。

●除籍
 1974年12月25日、1907+1957+1958+1908、1909+1959+1960+1910
 1976年1月30日〜3月30日、1901+1951+1952+1902、1905+1955+1956+1906
  1901・1902→伊予鉄道モハ125+モハ124(1989年2月除籍)
  1905・1955→岳南鉄道モハ1905サハ1955(1981年7月除籍)
  1906→大井川鉄道モハ1906(1996年7月除籍)
 1976年9月30日、1903+1953+1954+1904、1911+1961、1912+1962、1913+1963、1914+1964
  1953→大野工場(倉庫)
  1911-1914・1961-1964→富士急行モハ5231-5235・クハ5261-5264(1984年1月-10月除籍)

TOPページへ / 小田急のページに戻る